例えば、金品を奪って、人を殺した犯罪者についてどう感じますか?
この犯罪に関心を持っていると
「悲しみ」、「怒り」、「憤り」、「憎しみ」、etc。
というような感情を感じると思います。
このように感じる時、私達は被害者の視点となっています。つまり、自分や自分の家族などが被害になったという視点です。
では視点を変えて、犯罪者の視点になったらどう感じるでしょうか。
「生活するためにはお金が必要だった」
「被害者がお金をもっていたのが憎たらしかった」
例えば、このような理由だったとします。
まず、「生活するためにはお金が必要だった」からは恐れが感じられます。お金がないことは恐れにつながっているのです。今の世の中お金がないと食べ物も住む家も手に入らないという恐れがあるのです。
次に「被害者がお金をもっていたのが憎たらしかった」からは苦しさが感じられます。相手と自分が同じではないつまり相手だけがお金を持っていて、自分が持っていないことに対し苦しみを感じているのです。この苦しみに共感してもらいたいから、相手を同じように苦しめてしまったのです。
このような犯罪者が抱く感情は誰もが持っています。ですがたいていは被害者の感情に共感するため、犯罪者を責めることが多いと思います。実はこれは相手を責めることで逆に自分の中にある同じように感じる感情を隠しています。相手と自分は違うという気持ちが根底にあります。つまり犯罪者と自分を分離させているのです。
この分離感に気づくとあなたの意識は変化していくことでしょう。なぜなら、分離感に気づいてはじめてそこから離れることができるからです。自分がどこにいるかわからない時にはどこにもいけないのです。
さて『LIVING DELIBERATELY』の中にある一文ですが
「あなたは私にも犯すことができないような過ちを犯したことはなく、また犯すことはできない」
という文があります。この一文は私達が1つであるという視点にたっています。あなたが感じるように私も感じるし、私が感じるようにあなたも感じている。あなたがすることは私がすることであり、私がすることはあなたがすることとなります。何気ない一文にも大きな意味があるのです。
この視点を変えることで何が得られるかというと自分が何者であるかとうことを知覚できるようになることです。
私自身もそれを探求、経験するプロセスの中にいます。そしてそれはすべての人についても言えます。