例の恐怖の感覚。何が怖いといって、ひとりである感じることが一番怖い感じがする。ただこの感じを誰かに伝えるのは非常に難しいかもしれない。誰でもひとりであるという感覚を感じるがそれがすべて同じような感じかはわからない。例えば敵がいて、相手にたいして恨みをいだいたり、恨まれたり、憎んだり、憎まれたり、辛さを与えたり、辛さを与えられたり、etcこのようなことは少なくとも自分ひとりではなく誰かがいる。だからこの方がまだ怖くはない感じがする。私は小学校低学年のプールの時間でプールに入る前にシャワーを浴びたとき、水に恐怖を感じた。それまではそんなことはなかった。幼稚園の時は、ビニールプールで楽しく過ごした記憶がある。水に対する恐怖の源がどこにあるのかはっきりとはわからない。過去生かもしれないし、今生で作り出したのかもしれない。この水の恐怖もひとりぼっちと通じるものがあると感じる。で、このひとりぼっちである恐怖に対しどう対応するかだが、意識が恐怖の真っ只中にいる場合、そこから抜け出すのは大変。意識は恐怖を感じれば感じるほどそこにはまってしまう。そういう時、無性に人恋しくなるし誰かと話したい、誰かと一緒にいたい気持ちになる。また自分の中には「私といると一緒にいる人を不幸にしてしまう」という思いに気づいた。たぶん自分を価値がないと感じている部分があるのだろう。これは発見。人の意識は深い。で話を元に戻すが恐怖にどう対応するか。恐怖を感じるのは感情である。感情は脳でいうと右脳の働き。大事なのは左脳の働きだと気づいた。左脳は思考、気づき、判断など論理的。そこには感情はない。感情は素晴らしく、喜びを感じたら至福なのだが逆に恐怖を感じたら地獄になる。感情を開放するのは大事なのだがそれだけだと感情に振り回される場合がある。この時大事なのが左脳的な働きだと気づいた。ひちりぼっちの恐怖を感じた時、「私はなぜ恐怖を感じるのか、恐怖はどこからきたのか、恐怖を味わうことに何の意味があるのだろうか」など、左脳的思考を取り入れたら、意識はそこに集中できる可能性がある。どちらにしろ私たちは右脳と左脳、感情と思考(気づき)のバランスととりながら生きるのがよいと感じる。