母親への執着...それは
7月 2nd, 2012 by Atom
これは少し前に気づいたことです。
私は性格が母親似だと思います。遺伝でしょうね。
例えば、
・心配症
・凝り性
・まじめ(この部分は父親似でもあります)
・道徳的(正しいことを真っ当しようとする)
・笑い転げるような時がある(性格ではないですが)
・努力タイプ
・etc
思いつくのはこんなところです。
で、母親と似ているために、話しが合うからわかりあえる部分が多いのです。
すると、
わかってもらえている=愛してもらっている
という愛され感覚が強いために、それを失うことが怖くなるのです。
これは母親への執着となっています。さらに見ていけば母親への執着は自分への執着でもあります。母親が高齢になってきたこともあり、余計に心配してしまいますし、他の家族が母親を心配させることに心配してしまったりします。
自分が幸せになりたい、愛してもらいたいという執着があるのです。
なぜこの執着が生じるのか、それは、自分が存在するだけで、幸せであり、愛されているという感覚がないからです。
本来は、空です。空とは無でもあり、有でもあり、すべての可能性が含まれています。
*空を言葉で表現できないので、方便です。また空という名前自体も方便です。説明できないものに本来は名前など付けられないのです。ですから、この文章自体も方便と言えるので、そういうことを踏まえつつ読んでいただければと思います。
まず、空から、意識が生じて意識は自分に気づき「私は在る」となります。
この「私は在る」だけで、幸せや愛などがすべて包括されているそうです(I am thatや無空庵さんのところのブログ)。
*私はこのような感覚は経験しているわけではないです。ですから私自身の確信度は50%ぐらいです。私が経験した「私は在る」は「私は在る」で、それだけです。その先(あるのかどうかわかりませんが)は経験してないのです。
*ですが、「私は在る」状態ではない状態で、「すべてを愛している」感覚になったことが2度あります(以前にも言及していますが)。これがどんな意識状態なのかを左脳的、論理的に言葉でもっと詳細には表現しにくいです。
ちょっと、話しが脱線ぎみですが、自分が存在するだけで、幸せで、愛してもらっているという感覚があるなら、自分が愛を欲しいという執着はなくなると思います。
たぶん、いま進んでいこうとしている意識状態はこれだと感じています。気づくだけで達するのかもしれませんが、なかなかそうはなっていません。
ですが、目的が見えたのですから、前進?と言えるのかもしれませんね。