I AM THAT(p136)より。
「夢は考えることによって起こるのでしょうか?」
「すべては観念の戯れだ。観念化から自由になった状態のなかでは、何も知覚されはしない。その根本となる観念が「私は在る」だ。それが純粋意識の状態を打ち破る。すると無数の感覚、知覚、感情、観念が、その後に続いていく。それらの全体性が神であり、世界なのだ。「私は在る」は観照者として残る。しかし、すべては神の意思で起こるのだ。」
「私の意思で、ではないのでしょうか?」
「またしてもあなたはあなた自身を神と観照者に分割した。それらはひとつなのだ。」
マハラジが言葉で説明する時の観点がすべてはひとつであり、真我である視点から語るために、一般的にはとてもわかりにく、理解しがたいと感じると思います。
なぜなら、観点が違うために、違和感を感じるのです。
「神の意思で起こる」とは、要するに起こることは起こると言っているのと同じです。~がと言った時点で分離しているために、マハラジは分離していると指摘しているのです。
まあ、言葉は分離して整理するためのツールなのである程度仕方がないのですが。