釈迦は「生存苦」、
「生きることが苦である」
としました。
以前、苦しみというタイトルでこんなことを私は書いています。
https://www.angelflower.org/yyoyeyayaycyeyoyye/3314.html
ちょっと話しが変わりますが、このGWに法事がありました。
私は母親の代理で出席し、親戚と共に田舎に行きました。
法事と言うと供養という意味があり、本来は厳かなもの?なのかもしれませんが、私は楽しくて仕方がありませんでした。
久しぶりに親戚と会い、話して、飲んで、食べて、そういうことが無性に楽しかったのです。
そして、かなり酔っ払ってしまい、その日は酩酊のまま寝ました。
あくる朝、AM5:30ぐらいに起きたのですが、幸せ感でいっぱいワクワクしてしまっていました。
別に酔っ払っていたからそう感じたというわけではなく、まさに
「生きていることが楽しい」
という気づきでした。
私達はネガティブな感情を感じてしまうと、
「生きることが苦である」
と感じます。
ですが、この感情はとても貴重な体験であり、苦しみも別の視点でみれば楽しみにもなると思います。
言葉で説明すると、説明しきれないのですが、
「生きるにしろ死ぬにしろそこには楽しみがある」
と感じます。
もちろん、いつもこう感じるかというとそうでないかもしれません。
ある時は、病になるのを恐れ、苦しむことを恐れてしまうでしょう。
ですが、先程の瞬間(酩酊して寝て起きた時)は確かにそう感じたのです。
あまりにもワクワクしてしまって、これを後でブログに書こうと思ったぐらいです。
人は常に変化しますから時間が変わるとこの感覚も変わってきますが、確かにその時は、すごい気づきでした。
何度か書きましたが、
「今を楽しめばいい」
それでいいと思います。
私達は喜びを感じたいという意識存在です。
「生きることが苦である」
とした釈迦は悟ることで苦を楽に変える方法を説きました。
釈迦の残した功績はとても偉大なものです。
ですが、悟りが
「生きることが苦であることから楽にすること」
が目的だとしたら、今は悟りを修行のように捉える必要はなく、
「生きることが楽である」
感じることでまさにそうなります。
つまり、悟りも不要であるということです(感じると意図すれば感じれるということです)。
では、「悟りはどういう意味があるのでしょう?」
悟りは「知ること、わかること」であり、感情とは、直接関係がありません。
悟ったら、喜びでいっぱいになるとは限りません。安心感やリラックスを感じる人もいると思います。
ですが、悟ることで、ものごとの考え方や捉え方が変わるはずです。
それは、ある意味、稀なことであり、素敵なことだと思います。