「むみょうぼんのう」
と読みます。
NHKの教育番組をちょっと垣間見たのですがその時に出てきた言葉です。
年配の方が、ある詩を書いていて、その内容は奥さんが亡くなって話しを聞いてくれる人がいなくて、寂しい、悲しいという詩でした。
気持ちはわかりますよね。人は誰かに自分の話しを聞いて欲しいものでしょうから。
ある時、この思いが
「無明煩悩」
だと気づいたそうです。
無明煩悩って難しい言葉ですが調べてみると
『真理に暗いこと。
迷いの心。
欲望や執着心などの様々な煩悩の根本にあるもの。
無明とは迷いのことで、仏教ではすべての苦は無明煩悩から発するとしている。
煩は火+頁(あたま)で頭に火がもえるようにわずらわしいこと。
尚、頁は人の頭に小さく両足を添えた形を描いたもの。
悩は心+頭の上に毛の生えた様(脳の原字とされる)。
従って、色々と頭を悩ましたり心をかき乱すこと。』
*http://www.kokin.rr-livelife.net/yoji/yoji_mu/yoji_mu_2.html
だそうです。
前にもこのブログで書いたのですが、
わからないこと=恐怖
なのですよね。
だから、わかると恐怖でなくなり、悲しみや寂しさもなくなっていくってことだと思います。
例えば、死は単に意識の波動が変化した状態で、存在しないわけではない。そして実際に死んだ人の意識が感じられるし、それを見ることができたら、悲しみや寂しさって感じないでしょう。
この方は無明煩悩に気づいた時、光明を見出したと言っていました。
光、つまり、気づきや洞察や真理を見出すと、それって光を見出すことであり、意識が変化するのです。
これは左脳的な気づきと言えるでしょう。つまり、思考を通しての気づきです。
で、右脳的な気づきである、感じること、こちらも同時に経験すると、さらに光を感じるでしょう。
煩悩は自分で創り出した幻想でもありますし、この世界でのゲームを楽しむための制限とも言えます。