備忘録8(恐怖について)
2月 21st, 2010 by Atom
恐怖については何度かこのブログでも書いています。また恐怖について気づきがあったので残しておこうと思います。以前、気づいたことと同じような気づきもあるし、また違った気づきもあります。
恐怖とは何か?
よく愛と恐怖というように愛の反対や愛がない状態を恐怖であると書かれている本があります。前にも書いたように愛と恐怖は非常に似ているところがあります。それはどちらも「意識を引きつける力」があることです。恐怖を感じる時、意識はそこに向かいます。感情としては恐怖を感じたくなくても、恐怖を感じてしまうのです。そもそも感じたくないという気持ちが意識がそこに向かってしまっています。
愛も恐怖もどちらも引力のように感じます。人をひきつけるのです。
恐怖は人を引きつける力をもつ何かです。何らかの大きさと形を持ち、それはある意味、未知です。例えば幽霊を怖いとします。幽霊は名前は知っていると思います。しかし、実際には怖さを感じます。なぜかというと、100%知っているわけではないからです。「幽霊とはxxxである」ということが腹の底からわかり、自分に対してなんの危険もないもの(自分の存在をおびやかさない)だと感じることができたら、怖くなくなるかもしれません(実際に経験していないのであくまでも予想ですが)。
私はちょうど小学3年生のプールの時間で突然、水が恐怖の対象となりました。幼稚園などでも水に入る時間があってその時には恐怖ではなく、水遊びを楽しいでいました。しかし、プールに入る前にシャワーをあびるのですがその時、独特の恐怖の感じを感じました。あの感じは今でも記憶に残っています。
その時からはプールが嫌で嫌で仕方がなく、プールの授業をさぼったり、時には学校も休んだりしました。どうしても水が怖くて、プールに入りたくなかったのです。中学、高校でもこの恐怖を克服することはできませんでした。また大人になり水と接する機会があまりなくなっても、この恐怖はずっとあります。ただ、恐怖の大きさは当時感じた時よりは小さくなっているかもしれません。それはいろいろな経験を通し、水に対する感じ方が変わったせいかもしれません。
恐怖は人の行動を制限します。それを感じたくないからです。でも実は恐怖は向き合った方がいいなと感じます。
恐怖を感じきって、それを感じないようになった時をイメージしてみました。なんと晴れ晴れとして、気持がいいことでしょうか。喜びを感じるのがわかります。そう気づくと
「恐怖を味わってみよう」
「恐怖を味わいたい」
「恐怖がありがたい」
「恐怖も素晴らしい」
など恐怖もいろいろな見方、感じ方もできるのではないかなと思います。恐怖は「成長の糧」、「喜びを感じるための手段」とも成り得るって感じです。
恐怖を克服しようとしたら、
「恐怖と向き合い、経験し、感じきること」
これに尽きると思います。
以前にも書いたように何かイメージをした時によく海が出てきます。水が嫌いで入りたくもないのになぜだろう?と不思議に思ってしまうのですが。もしかしたら実は水は怖くなかった自分がいて、本当に水が素晴らしく喜びなんだと感じるために水を恐怖の対象としているのかもしれません。自分で書いていてこれってかなり自分にとって真実な感じです。
私も恐怖の真っ只中にいると怯えてしまって、感情に支配されてしまいがちなのですが、一歩、別の視点で見るとすごく楽になる感じがします。ゲームの主人公とそのゲームを操作するプレイヤーの視点の差とでも言いましょうか。そんな感じです。
なぜか、プールにいって水と向き合ってみようと思いました。恐怖の対象って横において感じないようにすることもできるのですが、意識を向けるとそこにはやはりあるのです。もともとそれに気づいていなかったり、完全に忘れてしまえば何もないと同じなのかもしれませんが気づいているうちはやはりあるのです。だとしたら、それを経験してみて、感じてみるほうがたぶん、いいはずです。これも選択に過ぎないので、向きあわなくてもいいのですが、自分はやはり向き合いたい感じがします。
恐怖って不思議な感じでやはり正体は100%はわからない感じがしますが恐怖は感じないべきではなく、感じて、感じきって、感じなくなったら、すごい喜びになってしまうと思います。
恐怖も素晴らしい贈り物なのかもしれませんね。