本日は善について考察したいと思います。
善とは
意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて。ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。
出典:コトバンク
上記の有用とは、役に立つとか効果があるという意味です。
今一、わかりにくいですね。
でも、私達は、自分の中で、これは、よいことだとか、あれは悪いことだって判断はしていると思います。時には難しいこともありますが。
そして、その判断は、個人個人で同じこともありますが、異なることもあります。
ですから、善は、絶対的なものではないってことですね。
では、絶対的な善は本当はあるのでしょうか?
神様を信じる人達は、たぶん神様が善と言えば善だし、善じゃないと言えば善じゃないということになるのでしょう。つまり、神様次第。
私は個人的には、善悪という二元論という視点で見れば、絶対的な善はなく、相対的な善しかないと思います。
ですが、二元論を超えた善があるなら、すなわち善という絶対的なものがあるとするなら、それは、存在(在ること)だと思います。
つまり、私達(人間も含めこの世にある全てのもの)が存在することは、すべて善です。
ここでの善とは、善悪の善じゃなくて、すべて許されているという意味です。
存在が許されているってことです。
だから、世の中にはいろいろな人がいて、中には犯罪を犯したり、戦争を起こしたり、人を殺めたりする人もいるけど、その存在自体は善であり、許されているってことです。
許されているから、そういう人達もここに存在しているってことになります。
言い方を変えると、すべてが存在してもいいし、それで完璧だってことです。
完璧だから、それをなんとか変える必要がないんです。
こういうと、
「犯罪を犯したりする人をそのまま放置してもいいのか?」
こう考える人もいるかもしれませんが、そうではないです。
犯罪を犯した人を取り締まるとか逮捕するとか、そうするのもまたいいんです。
つまり、簡単に言えば、存在してそして自由に経験をすることが、そのままでOKってことです。
ポジティブな感情を味わうのも、ネガティブな感情を味わうのも、どちらもOKってことです。
すべてが肯定されている、許されている、これが、善と定義したいと思います。
昔の哲学者とかは、善とは?といろいろ考えたと思うんですが、あらゆるもんが善だと定義すると、それだけで心が充足してきます。
たぶん、本来は、そういうもんだと思います。
ただ、分離意識(一元的ではなく二元的)から見れば、視点が価値観というフィルターを通してこの世界を知覚してしまうために、善悪を区別してしまいます。
分離意識が統合されたら、すべてはOKで完璧で、許されているんです。