般若心経に対する新たな視点
10月 16th, 2014 by Atom
先日、購入した佐々木閑さんの本「般若心経」(100分で名著)は、般若心経に対する新たな視点に気付かせてくれました。
般若心経は、お釈迦様が語ったことをベースに書かれているから、お釈迦様の教えと思っていたのですが、実は全く違うようです。
お釈迦様の教えは上座部仏教系です。
上座部仏教は、お釈迦様の教えを忠実に守ろうとする教えです。
一方、お釈迦様が亡くなり数百年ほど経過した時に出てきたのが大乗仏教というものです。
上座部仏教が、出家して修業により、解脱、悟りを得ることを目的として苦から解放されることを目指したのに対して、大乗仏教は、出家も修業も不要で、般若心経を唱えることでいいよという教えになっています。
つまり、大乗仏教は誰でも悟りを得ることができることを目指した教えです。
そして、般若心経は、お釈迦様の教えをある意味、違うよって否定しているんです。
釈迦は、
「この世界は、基本的要素が存在してそれが因果法則により時々刻々と変化している。私やあなたや物も常住ではなく、常に変化している。これが空である。この世にあるのは、最少単位の基本要素とその間に成り立つ法則だけである」
と言っています。
一方、大乗仏教は
「釈迦は、この世界が基本要素で構成されてその因果関係で動いていると語っているが、それは低いレベルの理解である。本当は、釈迦の言う基本要素自体も実体はなく架空の存在であり、基本要素などはない。したがって因果法則もない。この世は、理屈を超えたもっと別の超越的な法則で動いている。これが空である」
と言っています。
釈迦がいた時代から、長い年月を経ることで、人の考え方にも変化が起きたのでしょうね。
そして、釈迦の教えを超えた教えを広めようとしたんです。
両者の違いは、釈迦が科学的、論理的、理性的なのに対して、大乗仏教は情緒的です。
現代科学的に言えば、釈迦は、素粒子などが基本要素であると言っているのに対して、大乗仏教はそういう法則性も幻だと言っているんです。
だから、般若心経は、この世界を見極めることがお手上げだよと言ってるんです。
じゃあ、どうしようもないじゃないかって思えるのですが、般若心経は、唱えること自体が呪文(マントラ)になっていて、唱えることで、釈迦のように悟りを得ることができるというものだというのが、大乗仏教の言いたいことです。
日本に仏教が伝来した時にたくさんの仏教が出てきましたよね。
修業系だけじゃなくて、念仏とか。
修業だと修行僧じゃないと無理です。一般庶民は生きていくために働かないといけません。
だとしたら、一般庶民には、悟りは夢のまた夢になってしまいます。
これを救うというために、大乗仏教は、「修業なんていらない、ただ般若心経を唱えればいい」と言っているんです。
これは、まさに他力です。そして、釈迦の教えは自力です。
どちらが正しいとか間違えとかはないです。それは、信じる人次第です。
個人的には、両方ともにあわせもった考え方がバランスがとれているのでいいと思います。
全てが自力だとそれだけで、苦しくなります。ですが、他力だけだと依存になりかねません。
人が生きる時も同じです。一人では生きていけませんが、かといって誰かに頼りっぱなしでも、だめですよね。
自力と他力をあわせもつことで、生きていくツールとしての効果が高まるように思います。