無条件に人を信じること
9月 7th, 2014 by Atom
無条件に人を信じることができますか?
またいるとしたら何人いるでしょうか?
家族は無条件じゃないです。家族というのは、血のつながりという条件があるからこそだから。
赤の他人は信じれないでしょうから。
こう考えると、無条件に信じることは、かなりハードルが高いです。
本当は、無条件に人を信じれるととても心地よいのですけどね。
でも、それをできない。
なぜか?
なぜなら、怖いから。
信じることは怖いことなんです。
だって、裏切られるかもしれません。
自分にとって損になるかもしれません。
存在が危うくなるかもしれません。
もし、無条件に人を信じることができるなら、恐れが全くない場合です。
裏切られる、損をする、自分が危ない。このようなことに対して、まったく恐怖がないなら、人を信じれるでしょうね。
キリストとか聖人と言われるような人はこのレベルだと思います。
だから、普通の人にはかなり難しいですね。
ただ、無条件に人を信じないといけないわけじゃないです。
時には人を信じ、時には人を疑う。これが普通。
単に人を疑っている時は、いい気持ちじゃないというだけです。
エックハルトトールさんが、真の愛とは一体(物理的な意味ではなく)となることと語っていました。
これには同感ですが、
・存在はすべて分かちがたく、ひとつの生命
これに気付き実感することが、真の愛かと思います。
日本語で愛という大げさに聞こえてしまいますが、単に自他の区別がない状態です。
この時は、恐れがないです。恐れる対象もないし。相対的じゃなくて、絶対的なので。
ではどうしたら、一体になれるのか。
本当は自他の区別はないわけなので、一体になると気づけばいいのですが、それには、捨てなければいけないものがあります。
それは、”我”です。つまり、エゴです。
これがある限り、一体感を得ることは難しいです。
我を捨てるとは、仏教や禅なら悟りになります。
キリスト教なら、無条件の愛になります。