ウォーキングをしながら、思索をする。
するといろいろな思い、考え、気づきがある。
ただ、思考をめぐらせていると、わからないことがたくさんあり、それが新たな疑問を生み出していく。
・幸せとは?
・私の意図は?
・そもそも私は存在しているのか?
・私は何者か?
・悟りとは?
・気づきとは?
・なぜ、ここにいるのか?
・etc
答えは出てたとしても、それが新たな疑問を生み、それがまた、出した答えの正しさをぐらつかせる。
この世界を観察すると、変化している、常に。
自分もそしてすべてのものも。
そして、今は在っても、いずれなくなる。
元々ないところから、在ると自覚した時から、存在している。
もし、自覚がなければ存在自体ないことになる(たとえ物理的に身体があっても)。
五感があるからこそ、自覚できる。なければ、たぶん自覚できない。
感覚喪失タンクに入れば体験できる。
生まれた時はこの状態に近いかもしれません、身体があるという自覚とかいうものがないから。思考もないから、ただ在るだけで、五感感覚も大人に比べてごくわずか。
そして、感じることを中心に生きている。
もし、思考がなかったら、思いわずらうことはなく、苦悩はない。もっと、正確に言えば、何かがよくて、何かが悪いとかいう判断をしなければ、苦悩はない。
例えば、病気が嫌だ、貧乏は嫌だ、一人は嫌だ、苦しいのは嫌だ、お腹がすくのは嫌だ、大事な人が死ぬのは嫌だ、仕事が嫌だ、etc。こういうのは、すべていい悪いで判断しているからこそ思うことであり、判断がなければ、嫌とは思わない。
ただ、苦悩をなくすことは、難しい。なぜなら、判断をするように思考回路ができているから。というか、生きるという人間の目的を達成するために、判断することが必要だったから、自ずと苦悩が生まれたとも言える。
もし、生きなくてもよいと思えれば、死ぬことは怖くはない。生きたいという欲求があるからこそ、それを失うこと、つまり死ぬことが怖い。
人間(つまりエゴ)の最大の欲求は存在したいということ。
存在しないってことは、エゴの死であり、それが一番の恐れとなっている。
恐れを感じたくないから、死にたくないし、存在したい。
では、恐れとは何か?
これは説明ができない。説明しようといろいろ考えても言葉では表せない。だが、恐れがどんなものかを感じることはできる。
感じることでしか、わからないもの。
だけど、感じたくないものが恐れ。
でも、恐れは感じてしまう。必ず。
だから、避けようがない。
恐れを感じなくなるためには、すべてをOK、つまり受け入れることが必要となる。
恐れを感じる対象があっても、それを受け入れた途端、恐れがないことがわかる。
恐れとは受け入れることができない時に感じる感覚なのだろう。
では、受け入れるとは?
思考で考えても答えが出ない。リズブルボーさんは、愛だと言っているが、愛と言う言葉もまた、よくわからない。
言葉では、表現ができない。
このように、言葉の意味をいろいろと思考をするのもやはりエゴがなせる技。
たぶん、出てきた答えは、その時だけの答えだったり、相対的なものだったりする。
なので、真理とは言えない。真理という言葉でさえ、絶対的なものではない。
二元性の世界観で見ると、相対的になってしまう。
すべてが1つであると感じる状態で、この世界を見た時、この世界はどう見えているのか。
何もない、虚空だろうか。
体験してみないとわからない。