わからないことがあると不安になる
6月 28th, 2013 by Atom
私の場合、そういう傾向があります。
わからないから学ぼうという場合もあるのですが、
わからない⇒自分には無理⇒ネガティブモード
こうなると、沼に入り込んで足が取れないような感じで、ずっとそこにいる感じになってしまうのです。
例えば、何か病気になったとします。
病院にいっても原因がよくわかんらなし、治らない。
こうなったら、自分は治らないのだからダメだとか、なりがちなのです。
うん、でもここから抜け出さないでずっと、ダメな自分を経験したくはないではないですか。
だから、そこから抜け出すのにいろいろやるわけです。
例えば、
わからない⇒わからなくてもいい
こう思えたら、わからないことがさほど重要でなくなる。わかることに執着しなければ、いいだけです。いわゆるあきらめです。
これがひとつの方法。
もう一つは、
わからない⇒わかるようになればいい
これは、わからないなら、わかる人に聞くなり、わかるようになるまで学ぶなりして、いくことです。いわゆる成長です。
これもひとつの方法。
他にも方法はあると思うのですが、まあこの2つだけでも十分。
どちらがいいとかはありません。
言い方はよくないですが、所詮、目くそ鼻くそです(笑)。
同じようなものです。どちらにしても不安解消につながればいいから。
ただ、わからないことを考えてもしかたがないんです。そういう場合は、前者を選ぶ。
例えば、死ぬこと。死んだらどうなるか?
こんなことを考えてもわかるわけがない。これは、釈迦が言っていることでもありますけど。
死後の世界?輪廻転生?死んだら終わり?
どれをとっても、どれが正しいなんてないです。
釈迦は弟子に死んだらどうなるか聞かれて、「そんなことより今を生きよ」と語りました。
わからないことを考えても仕方がないからです。
釈迦だってそんなことを知らないし、知ったこっちゃないし、知りたいとも思ってなかったでしょう、たぶん。
白取さんの本を読んでいて、釈迦の教えってとてもよいと感じました。釈迦の教えが、仏教じゃないからです。
今の仏教はどちらかというと、キリスト教に近いと白取さんは語ってましたが、なるほどと思いました。
そもそも釈迦の教えは、苦しみから脱却して、悟りを得ることであり、祈ったり拝んだりすることじゃないからです。
釈迦は瞑想をして悟りを得ましたが、それは、座って目をつむることだけではなく、生き方そのものが瞑想だったようです。
なるほどと、関心してしまいました。
今を生きながら、悟る。
いい感じです。