人生と食べ物は似ています。
人生には、経験したいことと、経験したくないことがあります。
人は幸せになるために、経験したいことを欲して、苦しみを味わいたくないために、経験したくないことを避けようとします。
ですが、経験したくないと思うことはなくせませんし、経験したいことは必ずあります(食欲、性欲などの本能はなくすことは無理です)。
食べ物に関して。たいていの人は、食べ物にも好き嫌いがあります。嫌いなものがないという人もいますが、そういう人でも食べたことがない食べ物なら、嫌うものがあるかもしれません。
私達が経験でやっていることは、好きな食べ物だけを食べたがり嫌いな食べ物を食べようとしないことと同じです。
好きな食べ物だけ食べているとどうなるでしょう?
栄養バランスが悪くなり、身体に問題が出る可能性があります。もちろん、必ずそうなるとは限りません。
世界中のいろいろな食べ物を食べてきた人、自分の好きなものだけを食べている人。この二人を比べたら、どちらが魅力的に見えるでしょうか。たぶん、前者でしょう。
これは、人生においても同じです。人生を苦楽を経験してきたい人は、好きなことだけをやっていた人に比べて、魅力的です。
本質においては、どちらも差はありませんが、経験の差がそう見せるのです。
好き嫌いをして、自分の好きなことだけをやろうとする人生がいけないということではありません。別にそれでもよいでしょう。
ただ、人生の奥行が狭くなり、人生で苦しむことが増えてしまうでしょう。
・会社が嫌だから辞める
・あの人は気に食わないから無視する
・あいつのやり方は好みじゃないから否定する
・彼女の幸せが羨ましいから、妬む
・etc
自分が嫌な経験を避けることで、なんとか自分にとって好ましい状況にしようとするわけです。
ですが、これはとても狭い道を進むようなもので、ちょっとずれただけで、嫌な気持ちを味わいます。
苦しみを避けることはできませんが、苦しみを味わうことで、苦しみを克服することはできます。
また、苦しみを苦しみではないのだと気づくことで、苦しみではなかったと気づくこともできます。
いずれにしろ、苦しみからは開放されます。
前者は修行であり、後者は気づきです。
釈迦は最初は苦行をしてきましたが、これでは開放されないと気づいて、瞑想を行い気づきを得て悟りました。
人生で成功をした人が意識が高いのはある意味、修行の道を歩み苦しみを克服してきたからです。
小さな子供が無邪気な笑顔でいるのは、無意識に今を生きていて、苦しみに執着しないためです。
苦しみをなくそうとすることは、世界中にあるゴミをなくそうとするようなものです。久遠の時間がかかります。
苦しみを経験してもよいと思うと、ゴミが自分が創り出していたことに気づきます。
苦しみだけでなく、それを経験している自分がいなくなると、静寂が訪れます。